-吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき-
これは、天平二年(730年)、大伴旅人が大宰府から京に向かう途中、私の生まれ故郷の鞆の浦に立ち寄った際に先立った妻のことを想って詠んだ歌で、「私の妻が目にした鞆の浦のむろの木は、今も変わらずにあるが、それを見た妻はもう今はいない」という意味だそうです。
万葉集に収められているこの歌に、自分の住んでいる町が出てくると知ったのは中学生の時だったでしょうか。それまで“ただの田舎”としか思っていなかった故郷のことを、少し誇らしく思うきっかけとなった出来事でした。
ということで、今回は先月法事の帰省のついでに散策してきた私の生まれ故郷、福山市鞆町を紹介します。といっても、これはあくまでも “とある小児科医の独り言” 。完全に私個人の思い出を巡る旅です。ちゃんとしたものは、日本遺産 福山・鞆の浦公式ホームページ「VISIT鞆の浦」でご覧下さい。
さて、高校生の時に引っ越した今の実家から車で約20分、鞆の浦に到着です。港近くの駐車場に車を停め、振り返ると仙酔島と弁天島が目の前に。
この辺り、花火大会の会場にもなります。幼少期の私は花火が怖くて、両親に連れて行かれても「もう見た、もう見た」と言ってずっと下を向いていたそうです…。
時々釣りをした鞆港。ちょうど大潮の時期で、すごく潮が引いてました。石の階段は雁木(がんぎ)という歴史的港湾施設で、左前方の常夜燈とあわせて観光スポットの一つなんですが、私は右前方にあった美容室「みゆき」がなくなっていることの方が気になります。
ここも観光スポットとなっている保命酒(ほうめいしゅ)のお店ですが、私にとっては猛犬に追いかけられた“あの現場”でしかありません。
そして、猛ダッシュで逃げ込んだ路地。当時の記憶が蘇ります。
かつての通学路。全然変わってないです。近所の八百屋さんもまだありました。
そのすぐ裏手にある海が、私たちの遊び場でした。停泊している漁船で隠れんぼしたり、伝馬船を拝借して沖に漕いでいったり、今考えるとダメなことやってましたね。そりゃあ職員室にも呼ばれます。
町に数か所しかない信号のほとんどが青と赤の二色です。私、幼い頃はこれが普通だと思っていました。
かつて暮らしていた家の裏にある、医王寺の山門。ここでもよく遊んでいました。
境内からの眺め。私のお気に入りの景色です。この日は遠く四国まで見渡せました。ちょうど子供達が遊んでいて、昔の自分の姿が重なります。でも私がここで無邪気に遊んでいたのはもう40年近く前のこと。思えば遠くへ来たもんだ。
母校の鞆小学校は2019年に廃校となり、鞆中学校と統合されて鞆の浦学園という義務教育学校になったらしいです。この運動場のどこかにタイムカプセルを埋めたはずなんだけど、今どうなってるんだろう。
遊び場だった鞆城山公園からの眺め。この公園も民俗資料館ができたりして、すっかり様子が変わってしまいました。改めて、歳月の流れを感じます。
でも、何一つ変わっていない場所もたくさんありました。
約1時間かけて生まれ故郷を歩けば、ここでは書けないような思い出もたくさん蘇ってきます。いいことも、悪いことも、本当に色々と。自分の足跡を振り返り、今の自分、そしてこれからの自分のことを考える、そんな歳になったんだなあ。
翌朝帰路に着き、また変わらぬ日常が始まったのは前回紹介した通り。
で、何がタイトルの「2日後」なのかというと、そう、それは筋肉痛。約1時間、12,000歩かけてどっぷりノスタルジーに浸った代償は、2日後にやってくる。筋肉痛が2日後なら、当直の疲れや深酒のダメージが取れるのも2日後。そんな歳になったんだなあ。
ちなみに2日後の6月17日は、小児科ガイダンスの日です。
筋肉痛がちゃんと次の日にやってくる、そんな若者達がたくさん参加してくれることを心待ちにしているのでした。